田中マイミ エグゼクティブ・コーチ
- チームフロー プロコーチ養成スクール 認定コーチ
- 米国NLP™協会認定マスタープラクティショナー
- リュッシャーカラーテスト色彩診断士
- 国際資格POINTS OF YOU™認定トレーナー
- 内閣府認証 日本アロマテラピー統合医療協会 心理カウンセラー
- 内閣府認証 日本アロマテラピー統合医療協会 アートセラピスト
- 日本メディカルセラピー協会 アロマセラピー&メディカルハーブ認定講師
私について
京都府出身
3歳の時からピアノを習い始め、音楽と歌が大好きな幼少期を送る
京都府立高校在学中に、大阪で行われた第一回ヤマハシンガーオーディションにてのべ700人の中から優勝。高校卒業後、上京し、ヤマハネム音楽院にてボーカルレッスンを受け、19歳でデビューする。
その後、独学で作詞、作曲ができるようになり、2枚のシングルをシンガーソングライターとしを出すが、大きなヒットが出なかったことから、芸能事務所は辞め、作曲家やバックコーラスなどの仕事に転身バックコーラスでは、谷村新司、森山良子、鈴木聖美、など
作詞作曲などは、ビートたけし、川島なお美、元ピンクレディー増田惠子、稲垣潤一、その他多数
しかし、生活には困窮してしまい、アルバイトをしながら、音楽活動を続けていた
幾つかのアルバイトをしていくうちに、ドン・キホーテのアルバイト時代に創業社長から何度も社員へのオファーが来る。
2度断ったが、3度目に短い期間でも良いとのことなので、一旦正社員になる。1995年7月のこと
その後、スタッフでも複数店舗の担当部署の数値改善を図り、マネージャーに抜擢される
その時期にドンキの店舗販促のアミューズメントの基盤を独自の感性で築き上げた。それが今も店舗の販促になっている。
その後、創業社長からの依頼で店舗のイメージソングを作成した。それが今ではポピュラーなテーマソングとして巷で受け入れられている
その後は、新店舗立ち上げからマーチャンダイジング、自部署の本部仕組み作り、人材育成などをこなし、部長に昇格し、実質的にナンバー3という立場で約20年間幹部とし活躍。
当時年間売上800億の部署、部下アルバイト含め2500人、のべ人数では1万人の部長として、幹部250人以上を育成し、現在もその幹部達は全社的に各部署にて幹部として活躍している
その間にメンタルコーチの資格や、カウンセリングの資格なども取得
その後ドン・キホーテの人材育成などを中心とした本社部署で本部長となり、その後子会社代表取締役として2年任期を果たす
その後独立し、コーチング技術を使った、企業コンサル、エグゼクティブコーチング、企業研修、セミナーなどを軸とした会社、フューチャービジョン・ラボを設立
メディア出演
TV出演番組
『サタッぱち 古館の日本上陸』テレビ朝日 (2001/11/1,2002/1/19,2002/2/15)
『爆笑問題のアンサーマン』 フジテレビ (2002/1/1)
『深夜戦隊ガリンペロ』フジテレビ(2002/11/9)
『さんまVS星野 本日限り!史上最強TVショップ 明石家ジャパン』テレビ朝日(2005/10/21)
その他出演多数
他出演メディア
人志松本の〇〇な話 DVD誕生編〜後期〜
龍が如く ゲーム内出演
ミラクルショッピング秘話
あの曲が生まれたきっかけは、当時の創業社長からの依頼だった。
もともとお店の歌がなかったので、もともとミュージシャンであった私にも依頼してきたものだった。
私としては、どうせ作るなら、そこはプロ根性で、いろんなお店行き、店内の音楽を聴きまくり、日本一の店内テーマソングを作ってやろうと意気込んだ。
結果、来店客は口ずさみ、ともすれは、全く関係のない路上でも口ずさんでいる人がいたくらいだ。
本当に店舗拡大と共に日本全国この曲が浸透していった。ドン・キホーテに行ったことがある人なら誰でも知っているということになった。
芸能人の方からインタビュー受ける時にも、国民的ソングですよと言われたことが何度もある。アーティストからも、この曲を使いたいと言われ、何人もが使用している。
何より一番驚いたのは、槇原敬之さんが仕事を終え、一人寂しい夜にふと、そこに出かけると、気がつけば、槇原さんの心の隙間を埋めてくれた曲で、いつ、いかなる時も、どんな時もはげまされた。
さらに自分が自分らしくあるための曲。
というコメントと共に、FNSドリームカバー歌謡祭でこの曲を、どんなときものアレンジで歌われたことだった。コメントも嬉しいし、歌ってくれたことも嬉しかった。
まさかここまで受け入れられるとは、本当に驚きだ。
みなさんに言われるのが、とにかくこの曲を聴くと元気になるよ!!という言葉です。
これからもこの曲のように皆さんに元気を届けられたら最高です!!
子供の頃のエピソード
3歳からピアノを始める。
小さな頃から音楽が好きで、弾き語りでその時の流行りの歌を歌うのが日課だった。
読書も好きで、特に小学生の頃はイソップ物語やアンデルセン童話など、生き方を問うものが好きで、何度も読み返すくらいだった。
近所の子供達と遊ぶ時には既存の遊びにアレンジ加えるか、新たな遊びで楽しむことが好きだった。
子供の頃から何かオリジナルを作ることが好きだった。
私の父は幼少期に交通事故で身体的に障害を負う人で、義足を使い、手足が曲がったままの生活だったが、その父はバイタリティーがあり、何でも器用にこなす人だった。
自営業の洋服の仕立て屋さんは人気店になり、仕立ての腕も一流だったし、趣味で大工までできた。おまけに海は泳ぐし、山は登るし、車の運転も上手かった。
手足が悪いなんて思えないパワーの持ち主だった。そんな親を見ているから、健常者であることがいかに感謝すべきことかを常々思っていた。
小学2年生のころ私は同級生の男子生徒達からいじめを受けた。理由なんてなんでもいいのだろうけど、『ちんばの子』と言われて追い回され、泣いて帰った。
でも、父親は『なんで喧嘩に負けるのか?』ともう一度学校に戻ってやっつけてきなさい!!と
女の子なのに酷い!!とは思った。何より理由が父親の手足の障害のせいだけに、理由も言えずに学校に戻り、男子生徒4人にほうきを振り回して立ち向かった。
そしたら、みんな驚いて逃げて帰った。
きっと父は、負けず嫌いの典型的な人だったから、私にも負けて欲しくなかったのだろう。後に彼らは学校に呼び出され、いじめた事実を認めて叱られていた。
なんて破天荒な父親なんだろうか!
でも、普段は誰よりも私を可愛がってくれた。ピアノのレッスンにも付き添い、勉強も教え、よく遊びにも連れて行ってくれた。そのおかげで、愛情というものをしっかり受け止めることができた。
今の私があるのも、最後は必ず私の味方でいた父の存在があったからだ。母や妹も仲良しではあったけれど、それ以上に仲良しだった父親。
身体障害者というレッテルに負けずに、強く生きた父親の姿は亡くなった今でもずっと私の心に生きている。
愛情という支えは何者にも代えがたいものだと思う。大人になった今は、私自身が父親のように自分に負けないで、人を愛していきたいと思っている。